もちろん前売りチケットはゲット済み、今から待ち遠しいわけです。
それこそスター・ウォーズはジョージ・ルーカスのライフワークだったわけで、その魂を売るかのようなルーカスフィルムの売却は、まさかの青天の霹靂とも言えるニュースでしたが、それによって新たな三部作が作られることになったというラッキーな矛盾を生みました。
というのも、ルーカス自身が「もう続編は作らない」と明言していたので、ほとんどのファンは諦めていたはずだからです。
と同時にその“もう作らない宣言”は「あの失望感は二度と味わいたくない」というファンにとって、スター・ウォーズはオリジナル三部作だけでいい、という割り切った考えをもたらしたのも事実でした。
期待を裏切ったep1~3からみるルーカスの衰え
以前、日本にも有名なスター・ウォーズのカルト的ファンサイトがありました。そこの管理者はファンの中でも有名な人で、豊富な知識と情報量を誇っていた唯一無二の存在であり、そのサイトはスター・ウォーズファンならまずここを見ろ、というような代表的サイトでした。それほどの人が「エピソード1:ファントム・メナス」を見てスター・ウォーズに失望し、そのサイトを閉鎖してしまいました。
オリジナルの旧三部作(エピソード4~6)からのファンにとって、新たに作られた三部作(ep1~3)は、16年間も待たされたという飢餓感から開放されたこともあり、一気に期待値が大きく膨らんだのは必然的なことだったのです。
しかし実際に出来上がった作品は、ルーカスの「CG狂い」とも言えるような作風が期待を大きく外したものとなり、ファンは大いに失望させられてしまった――あれだけ我々を熱狂させてくれたルーカスのセンスは、もう錆びれてしまったのかもしれない・・・という。
あたかもそれは、ルーカス、スピルバーグ、コッポラといった映画界の巨匠たちがこぞってリスペクトをしていたという、黒澤明監督がそれこそ、カラーになってからの作品が色に溺れてしまったのと同じ道をたどっているかようでした。
映像技術の進化が内容的軽薄さを生むという矛盾
黒澤映画はモノクロ時代のものが圧倒的に評価が高く、モノクロはモノクロなりに土砂降り雨の激しさを伝えるために砂糖を混ぜて重たい雨を表現したり、墨汁を混ぜたりして質感にこだわったという逸話などは伝説的に有名です。しかしそれはクロサワ映画を語るほんの断片的なもので、実際はそういう逸話をはるかに超える絶対的な内容の面白さがあったわけで、それが世界から評価されていた要因なのは間違いないです。
同じようにルーカスも、旧三部作が公開された1977~83年といえば当然CGなどない時代であり、そんな中で手作りであれだけの特撮作品に仕上げたのが、当時としては圧巻モノだったのです。しかしながら古いファンはそうした特撮映像だけにに感化されていたわけではなく、ルーカス自身が神話学者ジョゼフ・キャンベルなどから影響を受けたという、古くから伝わっているような伝統的神話・民話的要素をスター・ウォーズ・サーガに見出し、そこに感銘を受けてもいるのです。
それはスターウォーズの旧三部作のそこかしこに盛り込まれている「仲間同士の助け合い」「友情」「自分の閃きを信じろ」「一時、悪は栄える」「師弟の信頼関係」「自分の心の闇に打ち勝たなければならない」「諦めない努力が明日の栄光を生む」「兄弟愛」「どんな最新の兵器であろうとも、原始的なゲリラ戦術にはかなわない」「最後には正義が勝つ」そして「親子の絆」・・・といったような、教訓的要素です。
黒澤作品が、カラーになってからその面白みがなくなったと言われたように、ルーカスもCGという、どんな映像も作れてしまう技術を得、それに特化するあまり、その代償として何かを失ってしまったかの印象さえ与えました。
つまりクロサワは色が自由に使えるようになったおかげでそれにだわってしまい、ルーカスはCGが使えるようになったおかげで、それこだわってしまったという皮肉な結果を生んだのかもしれません。
とはいえ、スター・ウォーズのep1~3はネガティブな評価ばかりでなく、新たな世代のファンを獲得したというのは、やはりさすがとしか言い様がないですが。
現代版わらしべ長者
ジョージ・ルーカスという人は、ハリウッド界きっての巨匠のように思われがちですが、実はハリウッドの映画界とは縁を切った人です。
その証拠に、この人はあれだけの業績を上げ、業界に貢献したにもかかわらず、ほとんどアカデミー賞とは無縁です。その根本はやはり、権威・権力への癒着や他者の評価を嫌ったというのがあるでしょう。
インディ・ジョーンズシリーズで協力し合った盟友であるスティーブン・スピルバーグはハリウッドの映画界と上手に付き合った人だと思いますが、ルーカスはどちらかというと人付き合いや人に従うことが苦手で、巨大なハリウッド資本を避けるように、独自のルーカスフィルムやILM社(Industrial Light & Magic)=特撮専門の映像制作会社(スター・ウォーズ全作品はもとよりマトリックスやアバターなどの映像も制作)を立ち上げ、自分の資本でスター・ウォーズを作った人です。
第一作目の「epsode4:新たなる希望」こそ、20世紀FOXの役員アラン・ラッド・Jrに認められ、制作資本金の提供を受けていますが、その時にルーカスは監督としてのギャラを下げる代わりに、キャラクターグッズの販売権・肖像権を得られるよう交渉したのです。そのオファーに対しFOX側は、まさか名もない(当時としては)宇宙SF映画が、途方もないグッズ売り上げ収益を上げるとは想像だにしなかったのは当然といえば当然で、あっさりとグッズの販売権・キャラクターの肖像権をルーカスに明け渡してしまったのが、後に取り返しのつかない後悔となったであろうことは想像に難くありません。
今となっては結果は明白なように、いざフタを開けてみればスター・ウォーズは空前の大ヒット、しかも映画の出演者、クリーチャー、ドロイド、武器、戦闘機などは、それこそ「キャラ立ちまくり」でファンを大いに熱狂させ、それによってルーカスは莫大なグッズ売上収益を得ることができ、その後のスター・ウォーズシリーズは誰からも資金提供を受けることなく、すべてジョージ・ルーカス自身の「お小遣い」だけですべて制作されたという、とんでもない現代版「わらしべ長者」な物語なのです。
つまり「持っている人」は運命的に何かが動く、ということをよく表しているエピソードと言えます。
ジョージ・ルーカスのオレ的ホロスコープ
ジョージ・ルーカスのホロスコープを見るとそれがよく表れていて、そもそも自分のセンスで生きる人だし、権威・権力に対してクソ食らえと言わんばかりの特徴がよく表れています。
ともかくこのホロスコープは月から広がるアスペクトに特徴があって、それらをすべて拾い上げているこの月に、スター・ウォーズの作風が集約されていると言っていい。
つまりこの月の中にはダーズ・ベイダーがいるし、ルークやアナキンの若年時の不遇な身分があるし、帝国軍と反乱軍の戦いもあるし、上述したような恒久的な神話・民話的要素もあり、さまざまなキャラクターのキャラ立ちもあり、そして特撮技術の追求もある。
それを月がまとめている。
ただやはり、年をとってから作ったスター・ウォーズに、うまくそれらが噛み合わなかった感があるのは、やはりこのチャートにもどこか暗示されていて、なにか「とっ散らかり感」があるのは残念に思えます。
そういう意味で言えば、ルーカスフィルムを売却してスター・ウォーズという巨大過ぎるコンテンツの行く末を後進に譲ったのは、ファンにとっては正解だったかもしれないです。
おわり
【※ホロスコープ画像はSolar Fire Ver.9を使用】