なぜ1月1日が新年?




なぜ1月1日が新年? | lyu1-web新年を迎えましたけども、おそらくほとんどの人が疑問にさえ思っていないのではないかという、この「新年」という区切り。なぜこのタイミングで新年が始まるのか?というのを不思議に思ったことはないでしょうか。

1月1日といえば、毎年だいたい山羊座10度あたりに太陽がいるはずですが、根本的な疑問として、なぜ山羊座10度前後に一年が始まるのか?というのを疑問に思わない人が多いと思います。

さまざまな学術や科学がこれだけ進歩した現代において、地球という太陽系惑星を考えた時に、おそらく何の意味も根拠もない1年のスタート点だろうと思うわけです。だったら冬至(山羊座0度)とかを新年に設定した方が、まだ意味があったと思うのですが。

その山羊座10度前後を「元旦」と称して、いかにも重要な暗示的意味があるかのように、ありがたがって初日の出を拝み、神社仏閣へ初詣をし、おみくじで一年の運勢を占い、初夢で一喜一憂するという世の中の不思議。というか、ほとんどの人がそれに盲従しているという、日本人の不思議。
特に人間の運勢など、1月1日で刷新されるわけがないのに。

そもそも今のカレンダーであるグレゴリオ暦は、16世紀にローマ教皇のグレゴリウス13世が制定したもの、という事くらいはちょっとネットをこねくり回せばすぐに分かることで、つまりキリスト教が決めたカレンダーなのです。
その過程にはライバルの他教との覇権争いがあった事や、時の権力を示すための材料でもあった事、なども分かってきますし、さらにグレゴリオ暦自体、7月と8月に31日が続くということが、暦として「いびつ」ですが、これにも権力誇示の理由があります。

その中で「1月1日を新年の始まりとする」起源について調べてみると、諸説あるようですが、
一説によれば、

  • キリストの生誕日が12月25日
  • その8日後の割礼の日を新年の始まりとする

という説が浮かび上がってきます。

これが正式な根拠ならば、よりによって割礼の日に、日の出を拝んで、教会でもない神社や仏閣にお参りをしていることになるという、この矛盾。たとえキリストがいかに絶対神だったとしても、それはキリスト教内だけのこと。他の宗教には何ら関係がない。

しかも割礼というのは、いわゆるお◯ん◯んの皮を切り取ってしまうことですよね。
われわれ日本人には馴染みのないものですが、割礼の起源を調べてみても、特に暗示的な意味がありそうで実はないみたいで、単に生殖器の衛生的な目的で風習として行われていただけ、ということのようです。要するに割礼は宗教的な深い根拠はなくて、人間の肉体的な理由によるものなのです。
それが新年のスタート?

つまるところ新年というのは、キリスト教が決めたローカルルール(にしては大きな組織ですが)における一年の始まりというだけで、その他に何か地球的な意味を探したところで、何もなさそうなのです。もちろんキリスト教信者にとっては重要な意味を持つでしょうが。

日本がこのグレゴリオ暦を導入したのは、明治5年の改暦の時です。これも調べてみると当時の国家の財政的な事情があったようですが、それはいいとして、ここでも意味不明なのは神社・仏閣もそれに従わせたということで、それまで「立春=新年の始まり」だったのを、すべてキリスト教式に改めてしまったという事で、神道も仏教もプライドがないのか?神道も仏教もキリストが絶対的存在なのか?と失笑を禁じえないのです。

そんなノンポリシーとも言える神社仏閣に、初詣をして、何か恩恵を授かる事ができますか?
神仏の力を頼むわりには、人間が定めたルールにハマりすぎてはいないですか?
という疑問がわかないでしょうか。

それまでの、つまりグレゴリオ暦導入前の、立春を一年のスタートとしていた暦は、別名「農暦」とも言われ、いわゆる農作物の成長と収穫のサイクルに合わせられていたものです。もちろん農業は、古来より人々の生活を支える重要な要素だっただけに、それが生活と密接している暦システムというのは、必要不可欠なものだったのでしょう。

そのスタートとなる立春は、ちょうど冬至と春分の中間点、つまり水瓶座15度(太陽黄経315度)で、この辺りで北半球では冬が終わりを告げて、春が始まる=草木が芽吹き始め、それにならって生物が動き始める、というタイミングになることから、農業の始まりとして「新年」と設定されたものだったのでしょう。そしてそこには、その年の豊作を願う人々の気持ちや、それに伴って好景気になれば争いが起こらず人々が幸せに暮らせる、という平和への願いなども込められた、トータル的に地球上の生物の生理にかなったものだったわけです。

一方で、天文学的や占星術的な観点からすれば、やはり春分が一年のスタートにふさわしいかもしれません。
春分は赤道と黄道の交差する二点のうちの一点、つまり太陽の軌道が、それまでの南半球から北半球にシフトする、地球にとって重要なポイントであります。
そしてその春分点から、牡羊座0度がスタートするわけです。

牡羊座0度のサビアンシンボルは「女性が水から上がり、アザラシも上がって彼女を抱く」というもので、初めて地上に立って何もわからないような状態を表しています。ここから地球上でのチャレンジが始まる、けれどもどうしていいかもわからない、アザラシでさえ敵であるか味方であるかも判断できない、抱かれた事が攻撃なのか愛情表現なのかもわからない、という無垢な状態を示しています。

そして360度の最後の度数である魚座29度のサビアンシンボルは「巨大な石の顔」で、石は固体であり物質であります。それまで12のサインで経験してきたことの全てが、この最後の度数で凝結して固体化し、信念となっていく事=つまり人間として完成されていくという事を表します。
こうした成長のストーリーが、階段を一段づつステップアップしていくが如く、360度ひとつづつに込められているわけです。

なぜ人は、現在の暦システムを1ミリも疑わず、そのルールに従っているのか?・・・生まれてこの方そうだったから。みんながそうしているから。決まりだから。儀式だから。親にそう教えられたから。・・・おそらくそんなものでしょう。

だから、、、といってはなんですが、太陽系のメカニズムに逆らって、特定の組織が独自に決めたルールで一年のサイクルを繰り返しているから、人間は、太陽をはじめとする天体エネルギーやバイオリズムといったものを理解できず、また上手に利用することもできずに、その結果、個人の発展性というものをスポイルしてしまい、さえない一生を終えていく人が多いのかもしれないです。

おわり



 

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